かたちを与える

雑多な所感

1st Jan. 2015 日記

 2015年1月1日の日記.

 

 未明に就寝し未明に起床するという荒技により生活リズムの調整,いや矯正をはかる.起床後朝食,それから相対論のまとめ,量子力学に登場する特殊関数の勉強開始,読書,など.相対論については,電磁気学の関わらない範囲での特殊相対論の議論の整理は終わったので,これから電磁気学とのかかわりあいについての理論をやり直す.特殊関数は,複素関数論の復習の必要性を感じる.読書は,ラッセルの『幸福論』読了.やはり時代的な価値観の相違はあれど,すでに考えたことのある内容もあれば,初見だが大きくうなずくことのできる内容もあり.

 

 午後には自転車で散走したのち友人宅でくつろいで過ごす.帰宅し,もう就寝する.

 

 明日は量子力学の物理のほうの勉強をしつつレポートをこなそう.

31st Dec. 2014 日記

 12月31日の日記.

 

 最近ではもはや当たり前のようになってしまったが,午後に起床.それらしいことといえばセブンイレブンでそばを買って茹でて食べながら映画を観た程度だろうか.

 ここからは12月31日のことではなく1月1日の出来事になってしまうが,いろいろ書いていたらいつの間にか日付が変わっていた.別に何かを楽しむことが嫌いなわけではないが,小さい頃からあまり年中行事を楽しむ習慣があまりなかったので,年越しもいまいちノリきれないところがある.

 

 そういえば「ゆく年くる年」なんてフレーズを目にしたものだから,それがきっかけになって,夏のある試験では時間概念について論じたことを思い返していた.いまは相対論を勉強しているし,好きな映画作品にはInceotionやInterstellarがあるし,なにかと時間について考えさせられることが多い.古代ギリシャの自然哲学からの流れでの近現代の自然科学の歴史を学んでいても時間についての議論は必ずあるし,量子論と一般相対論を統一しようという流れの中でも時間について話題にのぼる.

 というわけで,時間ってなんだろうということについて,自分がいま理解しているつもりのこともそのうち書いて,かたちにしてみたい.物理学的な対象としての時間というよりも,人間の思考や認識に関わるものとしての時間のこと.ただ,哲学の領域にあったものが科学の対象になるということはざらにあるので,アプローチの仕方を限定することには大して意味がないね.

 時間って存在するの?という疑問からある極限状態を想定してみたら,それは誰でも考えつくものらしく,古くはアリストテレスなんかも同様のことを言っていた(別に自分がすごいというメッセージを言外に含むものではない).

 

 今後の目標.目に入るあらゆるものに知的な好奇心を向け,それについて考える.そうしてあらゆるものを理解しようと試みる.理解の程度をはかるためにときには発信してみる.考える.

 

 

30th Dec. 2014 日記

 12月30日の日記.起床後引き続き相対論の勉強をする.テンソルに関しては自分の手を動かして考えることで理解を捗らせねば.その後自転車で都心を巡る.ある事件に遭遇.帰省ラッシュは過ぎたのか最中なのか心持ち人が少ない.というよりも人の多さの適度な街.イルミネーションに彩られて温かい.帰宅して夕食.読書.入浴.

 

 欲深いのでラッセル『幸福論』,朝永『物理学とはなんだろうか』,内井惣七『科学哲学入門』を並行して読んでいる.忘却が心配なので1冊に集中すべきだろうか.しかも微積分の本まで手に取った.でもいいか,読んでいて本当に根付たものの考え方なら忘れないんだ(そうであってほしい).こどもだって論理的な順番には従わない初体験を毎日繰り返しているじゃないか(もうこどもではないけれど).

 おっと他にも学ぶべきことはあったのだ.レポートもある......というわけで今日は長文は書かずにおこうか.

科学を学ぶことに伴う不安

 科学を学んでいると,いや厳密にいえば科学の歴史を学んでいると,時折漠然とした不安を覚えます.それはどのような不安かというと,「私が普段科学を学んで得た知識は”本物の”知識なのだろうか?」という不安です.この不安がいったいどのようなものであるのかということを知るために,「”本物の”科学的な知識」ということばの意味するところを考えていきます.

 

 科学における”本物の”知識(おそらくそれは”正しい”知識であると言い換えても構わないかもしれません)とは何なのでしょうか.ここでなぜ ” ” が必要であるかというと,それが科学の発展の歴史と大きく関係しているからです.

 科学という人間の営みの目的は,自然現象の説明にあります.そして科学者は個々の自然現象を説明できただけではよしとせず,あらゆる自然現象を統一的に説明できるような原理を持ったモデルを求めているわけです.そのモデルの正しさを証明するのが実験(あるいは経験事実)です.自然現象という実際に起こっているものを説明するモデルは,たとえ数学的には矛盾がなくとも,思弁のうちにあるだけでは正しいかどうか判断することが不可能です.したがって,実験的な事実と整合性の取れるモデルが”本物”だということです.

 ここで注意しなければならないのが,経験事実が理論の正しさを左右するということは,ある時点までの経験事実をすべて説明することのできるモデルであっても,未知の経験事実,新たに発見された経験事実を説明することができなければ,もはや正しいものとは呼べなくなる場合があるということです.新たな経験事実をそれまで正しいとされてきた理論が説明できないのは,その理論が間違っているのではなく,単に人間が説明のしかたを思いつかないだけなのかもしれません.しかしもしかすると根本的にその理論が新たな経験事実に対して適用できないものであるという可能性もあります.相対論や量子論は,いま述べたような経緯で構築された理論の主たるものです.

 このように,人間の経験することのできる現象の範囲が広がるたびに物理学は広がりを見せてきたのです.その過程は,仮説の構築と実験事実との整合性の確認,新たな現象の発見に応じた新たな理論の構築と古い理論の棄却です.そして”正しい”とされる理論はその時点で人間が確認できる範囲に限って”正しい”ものなのです.私が普段学んでいる理論というのは,この(ある範囲にかぎって)正しい理論に当たります.

 

 ということは,その時点で正しいとされる理論は,間違っている理論を必ず論駁できるものでなければなりません.それでなければ正しいものであるとは呼ぶことができません.しかしながら,普段その正しい理論を学んでいる私は,間違っている理論を論駁することができるのでしょうか?それが,私の感じる不安の正体です.たとえ正しい理論を学んだとしても,間違っている理論の論駁,つまりはどこがどういう理由で誤りであるのかということの指摘および正しい理論のどこがより優れているのかの説明を以って,正しい理論が正しいとされる所以を提示できないのであれば,私の知識は本物の科学知と呼べないのでないか. 私は普段科学を学びながら,過去になされてきたような科学の正しさの徹底的な検討を行ったうえでその正しさを受け入れているのだろうか?私の科学を学ぶ姿勢は正しいのだろうか......

 いま現在集中的に学んでいる相対論は,Newton力学の適用限界を指摘したことで正しさを認められたという経緯がありますから,その正しさを説明するのは比較的容易でしょう.しかし,他の分野はどうでしょう.そのNewton力学もある範囲においては”正しい”ものですが,私はNewton力学の正しい所以を説明できるのでしょうか?そう考えると,これまでの姿勢を見直す必要があるように思われるのです.

 もちろん,時間的な制約から,その正しさを徹底的に見直すことは脇に置いておき,正しい理論をひたすら学ぶことも必要です.なにしろ最先端の科学に至るまでに学ばなければならないことは山ほどあります.最新の科学は,それまでの科学の蓄積に立脚しているものですから,過去の科学の勉強はそれを理解するには避けては通れない道です.しかしながらそれでも現在の科学の正しさを検討したい.

 

 こう考えていると,いずれ選択をせねばならない時がくるように感じられます.なにしろ人生は有限で,それ以上に私個人の科学の能力の限界という制約は大きいものです.となると,やはり私は科学の学びにおいて,過去へと目を向けるのではないでしょうか.

 とにかく今は基本的な科学の素養を身につける時期です.時間の許す限りは上に述べたような検討もしてみたいものです.

 

29th Dec. 2014 日記

 12月29日の日記.

 

 ずいぶんとゆっくり睡眠を取ったので,快適な1日を過ごすことができました.トラウマになるようないやな夢を見ましたが,そのあと再び眠りについたのが良かったのでしょうか.「戦略的休養日」の今日したことといえば,テンソルの勉強をしたことと,夕食を作ったことぐらいでしょうか.

 

 自炊を始めた当初はおっくうに感じられたのですが,いまではすっかり楽しみです.保存の期限と食事の摂取量を考慮しながらできるだけ安価で美味しい食材を購入し,それらを効率よく短時間で調理する,というのは一種の最適化問題ですね.それを意識的であれ無意識的であれ行うことのできる親たちは非常に賢い.私も最適化を極めよう.

 

 テンソルというのはスカラーやベクトル,行列を一般的に取り扱うもので,大きな文字に小さな数字や記号がくっついたものとして表記されます.物理学では特に相対論で多用されます.この小さな記号たちを操作していると可愛くて可愛くて,愛着が湧いてくるのです.

 それはさておき,このような便利な記号について勉強していると,ことばで表現することの困難なものを数式として表現するということは素晴らしいことだと思えてきます.人間の想像の困難なもの,意味を考えると難しいものを,数学によって形式的に取り扱うことができ,突如として直観とは異なる驚くべき結果が得られる.物理学的な観点から見る数学の歴史は,やはり自然を記述する数式ということばの発明の歴史なのだということを実感させられます.

 

 この冬はよい冬になりそうです.

 

 

 

 

28th Dec. 2014 日記

 12月28日の日記.

 

 (広い意味での)今日はゆっくりと起床し,家事をこなし,美味しいコーヒーを淹れました.行きつけの喫茶店で買っている苦味の強い豆を使っているのですが,今日で切れてしまったので買いに行かねば.

 それから相対論の知識を整理します.特殊相対論の基本は一通り終えてしまったので(といっても大したことはありません),あとは他分野との関連からの考察が必要です.まず電磁気学はその理論の根幹から相対論との相補的な関係にあります.それから解析力学はいまのところNewton的な低エネルギーのものしかやっていません.緻密で体系的な物理学の素養を身につけたいものです.

 夜には友人と夕食を取りました.年末にはたいていの人が帰省してしまうので,暇な二人で,所属するコミュニティのことをメインに雑談です.しばらく友人たちとは面と向かって会話をしていなったので,よい気晴らしとなりました.

 

 帰宅後にTVをつけるとNHKサイエンスZERO量子コンピュータの話を特集していたので見てみたのですが,さっぱり理解できませんでした.私が量子力学の知識を身につけていない一方でなまじっか理学部の学生であるばっかりにどうしてもその数学的な構造だとかそういった話からしていただかないと,「量子ビットでは重ね合わせ状態が実現される」では科学的な説明としては不十分に思えてしまうのです.ただ30分の尺の一般向けの番組に期待しても仕方がありませんね.勉強します.

 そのあとの地球ドラマチックという番組ではオーロラの特集を長尺で放送していましたが,今日はほかにもやることがあるななんて思ったものですから,机に向かいました.ところが量子力学の計算がやはり膨大で,「これは量子力学の物理的な意味に関わる部分ではなく数学的なテクニックの話だ!」と言い訳をして,ほかの本を読みはじめ,いまに至ります.

 

 本といえば,『物理学とはなんだろうか』の上巻を読み終えたので,(広い意味での)明日から,下巻を開きます.上巻をかなり単純化すると,著者の朝永振一郎による物理学の定義を裏付けるために力学と熱力学の基礎概念の構築の歴史的な経緯を記述したものだといえます.物理学という概念の記述ではありますが,それをある程度の実感を持って読むことができることに充実をおぼえます.

 

 

今後書きたいこと

 今後書きたいこと.いくつかあります.(少なくとも私の)脳の容量には限界があるので,知識や理解のまとめとしてこのブログを外付けHDDとして使うということをしばしば行います.この冬休み中に,それら書きたいことの色々に集中するのも楽しそうなのですが,いま現在ほかにもやりたいことが随分とありますので,外付けHDDに今後保存する予定のことを書いておきます.

 

1.Christopher  Nolan 監督の作品,特に Inception および Interstellar について

2.決定論と自由意志について物理学的な観点から考えること

3.大学入試改革のこと,特に「人物本位」とはどういうことかについて

 (資本主義あるいは民主主義に関する自分の浅い理解を絡めながら)

4.現在読書中の『物理学とはなんだろうか』(朝永振一郎)の要旨と考察

 

以上です.

 

 この冬休みに何をしたいのかというと,時間的な制約に束縛されずしかも独自の観点から知識を整理することのできる「楽しい物理」と,大学の課すレポートの期限に追われながらひたすら指示に従う「いやな物理」(といっても独善に陥らないためには必要な学習なのですが)です.特に量子力学で要求される計算量が案外膨大であることと,物理数学が手付かずであることが不安材料でしょうか.しかもいろいろと学習を進めていくと過去に学んだ分野,微積分や熱力学の理解が甘いことが判明したので,もう一回やり直さねばならないのが心労です(そもそも体調がよろしくなかった時期がしばらく続いたので「初習」に近い事項もある).でも,楽しいから構いません.