かたちを与える

雑多な所感

科学を学ぶことに伴う不安

 科学を学んでいると,いや厳密にいえば科学の歴史を学んでいると,時折漠然とした不安を覚えます.それはどのような不安かというと,「私が普段科学を学んで得た知識は”本物の”知識なのだろうか?」という不安です.この不安がいったいどのようなものであるのかということを知るために,「”本物の”科学的な知識」ということばの意味するところを考えていきます.

 

 科学における”本物の”知識(おそらくそれは”正しい”知識であると言い換えても構わないかもしれません)とは何なのでしょうか.ここでなぜ ” ” が必要であるかというと,それが科学の発展の歴史と大きく関係しているからです.

 科学という人間の営みの目的は,自然現象の説明にあります.そして科学者は個々の自然現象を説明できただけではよしとせず,あらゆる自然現象を統一的に説明できるような原理を持ったモデルを求めているわけです.そのモデルの正しさを証明するのが実験(あるいは経験事実)です.自然現象という実際に起こっているものを説明するモデルは,たとえ数学的には矛盾がなくとも,思弁のうちにあるだけでは正しいかどうか判断することが不可能です.したがって,実験的な事実と整合性の取れるモデルが”本物”だということです.

 ここで注意しなければならないのが,経験事実が理論の正しさを左右するということは,ある時点までの経験事実をすべて説明することのできるモデルであっても,未知の経験事実,新たに発見された経験事実を説明することができなければ,もはや正しいものとは呼べなくなる場合があるということです.新たな経験事実をそれまで正しいとされてきた理論が説明できないのは,その理論が間違っているのではなく,単に人間が説明のしかたを思いつかないだけなのかもしれません.しかしもしかすると根本的にその理論が新たな経験事実に対して適用できないものであるという可能性もあります.相対論や量子論は,いま述べたような経緯で構築された理論の主たるものです.

 このように,人間の経験することのできる現象の範囲が広がるたびに物理学は広がりを見せてきたのです.その過程は,仮説の構築と実験事実との整合性の確認,新たな現象の発見に応じた新たな理論の構築と古い理論の棄却です.そして”正しい”とされる理論はその時点で人間が確認できる範囲に限って”正しい”ものなのです.私が普段学んでいる理論というのは,この(ある範囲にかぎって)正しい理論に当たります.

 

 ということは,その時点で正しいとされる理論は,間違っている理論を必ず論駁できるものでなければなりません.それでなければ正しいものであるとは呼ぶことができません.しかしながら,普段その正しい理論を学んでいる私は,間違っている理論を論駁することができるのでしょうか?それが,私の感じる不安の正体です.たとえ正しい理論を学んだとしても,間違っている理論の論駁,つまりはどこがどういう理由で誤りであるのかということの指摘および正しい理論のどこがより優れているのかの説明を以って,正しい理論が正しいとされる所以を提示できないのであれば,私の知識は本物の科学知と呼べないのでないか. 私は普段科学を学びながら,過去になされてきたような科学の正しさの徹底的な検討を行ったうえでその正しさを受け入れているのだろうか?私の科学を学ぶ姿勢は正しいのだろうか......

 いま現在集中的に学んでいる相対論は,Newton力学の適用限界を指摘したことで正しさを認められたという経緯がありますから,その正しさを説明するのは比較的容易でしょう.しかし,他の分野はどうでしょう.そのNewton力学もある範囲においては”正しい”ものですが,私はNewton力学の正しい所以を説明できるのでしょうか?そう考えると,これまでの姿勢を見直す必要があるように思われるのです.

 もちろん,時間的な制約から,その正しさを徹底的に見直すことは脇に置いておき,正しい理論をひたすら学ぶことも必要です.なにしろ最先端の科学に至るまでに学ばなければならないことは山ほどあります.最新の科学は,それまでの科学の蓄積に立脚しているものですから,過去の科学の勉強はそれを理解するには避けては通れない道です.しかしながらそれでも現在の科学の正しさを検討したい.

 

 こう考えていると,いずれ選択をせねばならない時がくるように感じられます.なにしろ人生は有限で,それ以上に私個人の科学の能力の限界という制約は大きいものです.となると,やはり私は科学の学びにおいて,過去へと目を向けるのではないでしょうか.

 とにかく今は基本的な科学の素養を身につける時期です.時間の許す限りは上に述べたような検討もしてみたいものです.