かたちを与える

雑多な所感

『道化師の蝶』および『Self-Reference ENGINE』(円城塔)

 円城塔氏の『道化師の蝶』および『Self-Reference ENGINE』を読んでの感想.

 

 以下,ときおり私が考えていたこと.

 

 あるふたつの考え方が互いに矛盾していようとも両立して存在しうる,ということ.互いに矛盾したふたつの文章も共存は可能なのだ.

 

 (1)AはBである.

 (2)そしてAはBでない.

 

AやBには何を入れてもいい.A=Bでもいい.内容は全く矛盾しているが,こうしてここに並立して書き記すことができた.だから確かに(1)と(2)のふたつの文章はともに存在することができる.これは詭弁だと思うかもしれないが,しかし相矛盾する論理を並立してこのように電子的な文字として表記できるということは物理法則に逆らってはいない.

 

 次.物理学は普遍的な真理である,と発言したならば多少の反発があるかもしれない.3σだとか5σだとかじゅうぶんな統計的根拠を以って裏付けされていてもなお,物理法則はあくまでその時点での実験事実と矛盾しない限りで正しいものだからだ.では,数学は普遍的なものである,と発言したならばどうだろうか.この点に関しては,「数学の定理は一度正しい証明が成されてしまったならば決して覆ることがない.証明が成されたその時点から,その定理は宇宙が終わるまで(宇宙に終わりがあるとしたらの話だが),いや宇宙が終わってもなお正しいものであり続ける.数学こそ普遍の真理だ」と確信する者もいるという.

 はたしてそうだろうか.というのも極端な話,物理にしろ数学にしろインクや液晶の紙や画面の上のならびにすぎない.それらが手書きであるならば書く者によって,印刷であるならば字体によって,痕跡は異なる.人間は,厳密な意味で等しいとは言えないそれらひとつひとつの形を,等しいものは等しいものとして,異なるものは異なるものとして,区別する.さらには文字のまとまりとしての単語を,単語のまとまりとしての文を,文のまとまりとしての文章を認識する.だが▽・D=ρという文字列を見たすべての人間がその文字列は▽・D=ρであるという共通認識を得たとしても,その▽・D=ρという文字列の持つ意味づけを知らない人間にとってはただの文字列どまりだ.論理的な正しさにしても,その論理を理解できた(と思える感覚を持つ)人間にとっての正しさであり,そういった感覚を持たない人間にとってはその正しさは信じることによってのみ受け入れることが可能なのかもしれない.こうして考えると,数学も含めた広い意味での自然科学について主張される「普遍性」だとか「論理」とはなんであろうかと考え込まされてしまう.

 

 

 以上に述べたようなことが円城塔氏の思想(の一部)であるように思う.『Self-Reference ENGINE』においては,それが比較的直接示される.以下はそれらの一部だ.

 

「物質には人間の定めたルールなんて関係ない。」「それが自然現象そのものの不可能性に絡んでいない限りは。」(『Self-Reference ENGINE』48頁)

 

「しかしそれは人間が人間という限定の中で作り上げた納得にすぎない。人間には人間用のお話しか与えられない。」(『Self-Reference ENGINE』320頁)

 

 文学性を増した『道化師の蝶』では,科学や文章などの人間の行為を物質的に,言い換えるならば「ありのまま」に見るような直接的な文章はない.しかし物語全体が,「物語としての整合性が取れてはいるのか怪しいが,たとえ内部に矛盾を孕んでいようとも印字されたインクは物質的には存在しうる」というように表現されていると思う.

 

 客観性において成功しているように思われる自然科学の視点を,自然科学という行為それ自体,つまり人間や文字,記号へと向けるとき,自然科学自身の客観性が揺らぐ.その論理体系の内部で,「唯物的な視点は客観的か」という自己言及的な命題は証明できない.そういった考え方が,私が個人的に読み取った,筆者の作品を貫く幹である.もちろん他の幹の存在はあり得ることで,今回特に私が注目したのは,世界へのこういった唯物的な視点に関する考え方だったということだ.

 

 

 

(この内容についての考えを言語化するのに成功したとは思えないので,可能であればより洗練された文章によって再度表現できれば,と思っている)