かたちを与える

雑多な所感

物語ってなんでしょう

 物語ってなんでしょう.どうやったら物語を書くことができるのでしょう.深夜から明け方にかけ『カオスの紡ぐ夢の中で』(金子邦彦 著)を読んだあとの率直な感想です.

 本書には著者の深い「科学的な」洞察が随所に織り込まれています.しかしその「科学的な」洞察とは筆者にとってあくまで人間の文化的な行為です.これには私も同意します.なぜなら私も筆者と同様に学際的な考えを持ち(たいと望み),科学を人間の文化的な行為として考察したいと考えているからです.

 

 

 しかしながら(解説の円城塔に言わせれば)天才であるところの著者の洞察力,そして数々の洞察を自らの意識上にのぼらせそれをこのように表現する能力は素晴らしく,到底わたしが敵うものではありません.ページをめくると,たびたびわたしも日常的に考えたことのあるような,人間を含めた広い意味での自然に対する考察が登場します.が,やはりわたしが考えたことのないような考察がたびたび登場しますし,理解のできなかった事項も多くありました.

 そして何より驚くべきは後半に収録された短編小説,『進物史観』です.

 

 

 「生命とはなにか」と問われても回答することが非常に困難であるように,「Aとは以下の条件(1)〜(N)をすべて満たしていることを言う」という数学においてなされるような定義づけを行うことのできない概念が,世の中には数多く存在します.その中の一つが物語です.

 著者は,自身の専門とするコンピュータを用いた数理的なシミュレーションによるカオス現象の理解を試みることと同じように,この『進物史観』中の登場人物たちに「小説とは何か」をシミュレーションさせようとします.小説や物語作品に関する豊富な知識と,自己言及やメタなど哲学的かつ数理的な概念を関連させつつパロディを繰り広げるさまには圧倒されます.そして著者がこの物語を書こうとした試みそれ自体もまた「物語とは何かを考えながら,物語とは何かを考える人間を書く」という入れ子構造のようになっているのです.

 結局,「物語とは何か」という問いに回答は与えられません.それは著者も可能だとは思っていないでしょう.しかしながらこのように,私に物語とはなにかを考えるという新たな機会を提供してくれたのです.

 

 

 ではわたしは,物語とは何だと考えるのでしょうか.まずは愚直にWikipediaの助けを借りてみました.

 

「小説という言葉は、君主が国家や政治に対する志を書いた大説や、君主の命などを受けて編纂された国史に分類される伝統的な物語や説話に対して、個人が持つ哲学的概念や人生観などの主張を、一般大衆により具体的に分かりやすく表現して示す、小編の言説という意味を持たされて、坪内逍遙らによって作られて定着していったものとも言われている。
以前は、小説と物語の間には明確な区分があるとされてきた。 すなわち、“話の展開に内容から導かれる必然性があるもの”が小説であり、“内容とはかかわりなく偶然のつながりによって話を進めてゆく”のが物語という見方である。 言い換えると小説は「虚構の連続性と因果律のある話の構造」を持たねばならないことが条件とされた。
さらに発展して「話の展開と主人公の具体的な性格に必然的な関わりがあるのが小説。そうでないのが物語」とも言われた。 19世紀以降に小説の主題概念が強くなるために「小説」は主題、主人公の造形、話の展開の結びつきが密接であることを要求されてきた。
ただしこのような観念は、20世紀に入って『贋金造り』(アンドレ・ジッド)のような小説が登場するに至って、崩壊したといえよう。反小説なる小説まで登場した現代では、もはや何を以て小説とするかは一概に決めることはできない。
このように近代文学観の呪縛から離れてみれば、古代日本文学の『源氏物語』(紫式部)は、近代の心理小説に匹敵する描写がみられることが指摘されているし、古代ギリシャ文学の『ダフニスとクロエ』(ロンゴス)なども、「小説」的要素を持った最古の例のひとつといえよう。」ーWikipedia「小説」 http://ja.wikipedia.org/wiki/小説

 

あまりにも単純化した言い方をすれば,「小説とはあるテーマや思想を伝えるために必然性のある設定を持つと考えられていたが,現在では様々なスタイルの小説(らしきもの)が登場してきたためにもはや小説とは何かを一般的な規範によって示すことはできない」ということです.しかしながら,誰かが何かするという構図はさすがに保たれているようです.

 

 

 さて,先述の『進物史観』に刺激された(影響されやすい)わたしは,「物語とは何かは分からないけれどさっそく物語を書いてみよう」と思い立ったわけです.しかし全く何を書いたらいいのかが思い浮かびません.これはやはり,伝えたいと思うテーマがないからなのでしょうか.しかしわたしにも多々考えることはあります.ですが,その思想を物語に載せるという発想がないのです.だから物語を書こうとしてもうまくいかないのです.いったいそもそもなぜ人は言いたいことを直接言わずに物語などという回りくどい方法を経由するのでしょうか?

 ここまで書いて,なんとなくわたしなりの仮説が思い浮かびました.「直接ことばで表現するのが難しいことを小説という体験によって理解させることができるという場合もある」というものです.

 さきほどのWikipediaからの引用から察することができるように,小説を書く目的はいくらでもあるでしょうし,「物語を書くとはこういうことだ」と決めてかかると,決めてかかられるのが嫌いな人が,既成の枠にとらわれないものを書こうとするでしょう.したがって,「すべての小説は,直接的な言明によって実感を得られないことがらを実感させるような経験を,読者に与えるものである」とは主張しません.しかしながら,そのような小説が数多くあるであろうということです.映画を鑑賞すると特に強く思うことですが,百聞は一見に如かずというように,「ことばによって何でも理解できるなら,メッセージとしての映画は不要である」というわたしの個人的な主張と似ています.ただ物語の場合は「映像 対 言語」という対比構造をもつ映画の場合よりも微妙な区別が必要で,物語の場合「言語による直接的な表現 対 直接的な言明ではない言語的な体験」という構図になっていることに注意が必要です.

 

 

 これで考えることも言いたいことも尽きてしまいました.いずれ一回はなにかしらの物語を書いてみようと思います.興味深い斬新なアイデアに基づく設定から入るか,思想を伝えるべくそれにふさわしい登場人物や時代や場所を考えるのがいいのか,はたまたこれまでにない新たな小説のスタイルを思いつくのか......

 とりあえずは高校の文芸部に所属する妹の処女作を読んで参考にしようと思います.