かたちを与える

雑多な所感

『ゴーン・ガール』(デイヴィッド・フィンチャー)

 『ゴーン・ガール』(デイヴィッド・フィンチャー)を鑑賞しての感想.

 

 フィンチャーの長所がよく出ていたように思う.『セブン』での七つの大罪をモチーフにした連続殺人事件や『ゾディアック』に登場した暗号といった謎解きの要素を今回も導入することによって,暗いだけの内容にせず,ゲーム的な楽しさを感じさせた.今作ではゲーム的な謎解きを中心としたミステリというわけではなかったが.また『ファイト・クラブ』で見せたようなユーモアある台詞をふんだんに織り込んだことも観客を飽きさせない工夫であったろう.この作品はオリジナルではなく原作が存在するのでどこからどこまでがフィンチャーの手腕によるものかは判断し難いが,それでもテンポの良い構成は映画製作側の手腕によるものだと言っていい.

 

 本作品に限った特徴といえば人間の心理を巧みに描いた点で,観客に主人公へと感情移入させ,彼の抱く疑念をうまく表現していたように思う.恋愛につきものの「相手は何を考えているのだろうか?」という不安のありさまとして,今作で主人公が置かれた状況は究極だ.

 また全体を通じてメディア(主にテレビ)による報道が描かれる.報道は”ありのままの事実”を伝えるものではなく,事件と視聴者との間を取り持つまさに「媒体(media)」として,事件の当事者に影響を及ぼす.視聴者にはもちろん事件の関係者もいるのだが,今作では事件の関係者は自信が単に報道されるのを見るだけの視聴者ではなく,メディアに影響されメディアを利用しといった積極的な相互作用を行う視聴者として描かれる.そして,メディアは「世間体」の象徴である.婚姻には世間体がつきまとうものだが,今作ではメディアという究極の「世間」によって婚姻が規定されるのだ.そういった意味で今作はありふれた夫婦関係をやたら極端に描いたものだと考えるとあまり暗い気持ちにはならない.

 

 フィンチャーの作品は,『セブン』について言えば七つの大罪というやたら宗教的モチーフが登場し内容は厭世的虚無的で,『ファイトクラブ』について言えば若者の破壊衝動や資本主義への反発のような世相を反映したメッセージ性を感じさせなくもないのだが,かといってなんらかの読解を要求しているようにも思えなかった.そして今作でなかば確信したのだが,フィンチャーはいわゆる理性や思考に訴えかけるといった類の作り手ではなく,いかに映画製作の全体,つまり脚本に映像に音楽にといったものの総合を通じて観客の心理を操作するかを重視するスタイルを取っているように思う.「言語化しにくいけれどなんかいい」という感想を述べさせるような.おそらくその過程にあって世相というのが物語への没入度を高めるのに貢献しているのだが,没入度を高めることが役割である以上は世相自体に主眼はなくとも,どうしても世相というものそれ自体の性格によりメッセージ性がわずかに感じさせてしまうのではないだろうか.

 ただし,明確な目標がなく主として原作を映像化するというようなスタイルのためしばしば失敗することもある(『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』のように).

 

 

10th & 11th Jan. 日記

 1月10日と11日の日記.

 

 1月10日土曜日.休日.

 午前中は何をしていたのかと思い返してみると,前日夜に夜更かししていたので少しばかり起きるのに手間取っていたのではなかったか.ここ数日間はよく眠れ目覚めもいい.運動を取り入れているのが功を奏しているのだろうか.

 午後は図書館へ.Maxwell方程式の相対論的な表現(共変形式)の勉強をとりあえず終える.ひと段落.試験は3月らしいからしばらくは特殊関数に集中しよう.休日なので閉館が早い.というわけで映画館へ.デヴィッド・フィンチャーの『ゴーン・ガール』のチケットを購入.しばらく時間があったのでNolanの作品について記事を書こうと思いパソコンを開いていた.『ゴーン・ガール』鑑賞.それについての感想を書いた記事は別に載せる.帰宅.就寝

 

 1月11日.日曜日.休日.

 前日特に体力を使ったようには思えないのだが疲労感があったのでゆっくりと起床.家事.洗濯,掃除,調理.休憩.

 夕方から自転車で散走.カフェに籠りほうぼうに手紙を書く.便箋が余っていたので遅めの年賀状だ.「年賀状」という単語からは,新年の挨拶は葉書で行うに限るといったような制約は見受けられないから便箋という形式を取ったとしても年賀状には変わりないだろう.手書きにはタイピングと違う心地よさがある.再び散走.大学近く,今話題の某ファストフード店で閉店間際までぼうっとして過ごす.量子力学をやらねば.

6th~9th Jan. 日記

 1月6日〜9日の日記.

 

 1月6日.授業なし.

 大学にてレポートを提出.物理というより数学,講義ノートを繰り返すだけであまり面白いとは言えなかった.

 少し友人と話す.

 アナログ人間なので今年の手帳を購入.紙の手帳や本のほうが視覚的に(立体的に?)全体を把握しやすい点で,スマホやパソコンのそれらより使い勝手はいいようにも思う.文章を最初から最後までただ順番通りに流し読むだけなら基本的に違いはない.

 図書館.

 

 1月7日.授業.

 特殊相対論をまとめて,Maxwell方程式をまとめて,次は両者を統一的に記述すること.ところで,静電磁場の理論を見てみると特殊関数をふんだんに使っていて青ざめる.

 

 1月8日.授業.

 量子力学の理論がすっかり数学と一体となっており嫌気が差したのだが,そういえば力学も電磁気学解析力学微積分と一体化しているし同じことだと気をとりなおす.でももう少し,講義におけるアイデアや発想についての解説の比重を増やしてもいいのではないかと思うー「量子力学の考え方」.

 

 1月9日.授業休み.

 いろいろと話したいことがあったので尊敬している先輩と会ったのだが結局それらしい話題はほんのすこしだけになってしまった.専門の方にその分野に関して考えたことを話すのは気がひける.

 

 物理学がどんなものであるかを考えていると物理学をやる気にならない.物理学をやろう.

 

 

『道化師の蝶』および『Self-Reference ENGINE』(円城塔)

 円城塔氏の『道化師の蝶』および『Self-Reference ENGINE』を読んでの感想.

 

 以下,ときおり私が考えていたこと.

 

 あるふたつの考え方が互いに矛盾していようとも両立して存在しうる,ということ.互いに矛盾したふたつの文章も共存は可能なのだ.

 

 (1)AはBである.

 (2)そしてAはBでない.

 

AやBには何を入れてもいい.A=Bでもいい.内容は全く矛盾しているが,こうしてここに並立して書き記すことができた.だから確かに(1)と(2)のふたつの文章はともに存在することができる.これは詭弁だと思うかもしれないが,しかし相矛盾する論理を並立してこのように電子的な文字として表記できるということは物理法則に逆らってはいない.

 

 次.物理学は普遍的な真理である,と発言したならば多少の反発があるかもしれない.3σだとか5σだとかじゅうぶんな統計的根拠を以って裏付けされていてもなお,物理法則はあくまでその時点での実験事実と矛盾しない限りで正しいものだからだ.では,数学は普遍的なものである,と発言したならばどうだろうか.この点に関しては,「数学の定理は一度正しい証明が成されてしまったならば決して覆ることがない.証明が成されたその時点から,その定理は宇宙が終わるまで(宇宙に終わりがあるとしたらの話だが),いや宇宙が終わってもなお正しいものであり続ける.数学こそ普遍の真理だ」と確信する者もいるという.

 はたしてそうだろうか.というのも極端な話,物理にしろ数学にしろインクや液晶の紙や画面の上のならびにすぎない.それらが手書きであるならば書く者によって,印刷であるならば字体によって,痕跡は異なる.人間は,厳密な意味で等しいとは言えないそれらひとつひとつの形を,等しいものは等しいものとして,異なるものは異なるものとして,区別する.さらには文字のまとまりとしての単語を,単語のまとまりとしての文を,文のまとまりとしての文章を認識する.だが▽・D=ρという文字列を見たすべての人間がその文字列は▽・D=ρであるという共通認識を得たとしても,その▽・D=ρという文字列の持つ意味づけを知らない人間にとってはただの文字列どまりだ.論理的な正しさにしても,その論理を理解できた(と思える感覚を持つ)人間にとっての正しさであり,そういった感覚を持たない人間にとってはその正しさは信じることによってのみ受け入れることが可能なのかもしれない.こうして考えると,数学も含めた広い意味での自然科学について主張される「普遍性」だとか「論理」とはなんであろうかと考え込まされてしまう.

 

 

 以上に述べたようなことが円城塔氏の思想(の一部)であるように思う.『Self-Reference ENGINE』においては,それが比較的直接示される.以下はそれらの一部だ.

 

「物質には人間の定めたルールなんて関係ない。」「それが自然現象そのものの不可能性に絡んでいない限りは。」(『Self-Reference ENGINE』48頁)

 

「しかしそれは人間が人間という限定の中で作り上げた納得にすぎない。人間には人間用のお話しか与えられない。」(『Self-Reference ENGINE』320頁)

 

 文学性を増した『道化師の蝶』では,科学や文章などの人間の行為を物質的に,言い換えるならば「ありのまま」に見るような直接的な文章はない.しかし物語全体が,「物語としての整合性が取れてはいるのか怪しいが,たとえ内部に矛盾を孕んでいようとも印字されたインクは物質的には存在しうる」というように表現されていると思う.

 

 客観性において成功しているように思われる自然科学の視点を,自然科学という行為それ自体,つまり人間や文字,記号へと向けるとき,自然科学自身の客観性が揺らぐ.その論理体系の内部で,「唯物的な視点は客観的か」という自己言及的な命題は証明できない.そういった考え方が,私が個人的に読み取った,筆者の作品を貫く幹である.もちろん他の幹の存在はあり得ることで,今回特に私が注目したのは,世界へのこういった唯物的な視点に関する考え方だったということだ.

 

 

 

(この内容についての考えを言語化するのに成功したとは思えないので,可能であればより洗練された文章によって再度表現できれば,と思っている)

 

 

 

5th Jan. 2015 日記

 1月5日の日記.本日6日は授業がないので朝から(昨日の)日記を書きます.

 

 朝は日差しが横から照らすキャンパス内を散歩し図書館へ,そして授業に出席.午後の授業は特に出席しても意味がないので図書館へ.夕方まで電磁気学の参考書を開いて粘ったのですがどうにも眠気がひどく能率が上がらなかったため図書館をあとにし,都心某所の池を見て帰宅.するとポストにはAmazonで注文した本が4冊.うち2冊は円城塔氏のものです.以前金子邦彦氏の『カオスの紡ぐ夢の中で』を紹介しました.

物語ってなんでしょう - かたちを与える

 その解説を担当しておいたのが円城塔氏で,しかも氏のものかきとしてのルーツは金子氏の本作にあるといいます.「円城塔」の名前を知ってはいましたが作品のことは知らなかったものですから,興味を持った私はさっそくネットで作品を注文してみたわけです.というわけで読了後には氏の作品の感想を書くことにします.

 

 5日は読書をして終わりました......

3rd & 4th Jan. 2015 日記

 1月3日と4日の日記.

 

 3日は体調がよろしくなかったのでひたすら寝る日となりました.したがって何も取り立てて書くことがありません.

 

 4日には回復したので,未明に家を飛び出し朝の数時間を近場の某ファーストフード店で過ごしたあと,津波がきたら逃げている途中で飲み込まれるのだろうななどと思いつつ海まで自転車で散走してきました.都内から富士山が視認できることを確認.交通がパニックになるのは承知のうえですが,都内にもあんなふうに雪が積もらないものでしょうか.雪のない冬は寂しいものです.青空と白い橋白い飛行機白い雪山のコントラストを楽しみました.

 案外海は近かったらしく,昼過ぎには帰宅.本を読んでレポートをこなそうとしたのですが,体力の衰えなのかあまりに早く起きてしまったからなのか,強い眠気に襲われ,たまらず18:00ごろに就寝しました.そしていまに至る.今日から授業再開なので遅刻は確実に免れるという点では良かったかもしれない.冬はつとめて,といいますから,朝のキャンパスの空気を楽しもうと思います.

 

 今週からは日記以外のものを週にひとつは書こうと思います.あまり正月休み中に能率が上がらなかっのですが,今週はよく学びよく息抜きをしよく書きます.休憩時間の取り方の最適化,考えたことがなかったので反省.

2nd Jan. 2015 日記

 1月2日の日記.

 

 昨日は早めに就寝したかいあって7:00に起床したつもりだったのですが結局二度寝をし,気づくと午後に.なんということだ,時間がもったいない.なんとなく元気が出なかったので外出せずにゆっくり本を読んで飽きたらレポートの計算をして飽きたらまた本を読んでを繰り返していた日でした.

 

 

 まとめて考えを書きたいことが日々増えていくのですが,前述の通り今日はどうも気力がないのでやめておきます.週に2日は書く,などと決めておかないとこのままでは首が回らなくなる......